住 所   鳥取県米子市皆生温泉3-3-3
  電 話   0859-22-2263
 営業時間   立寄り 15:00~21:00
 入浴料   500円
温泉利用状況   完全放流式 (加水あり)
   
 源 泉 名   中央温泉貯湯槽6・8・10・18・30号
  泉 質   ナトリウム・カルシウム-塩化物泉
 湧出量       ℓ/min
 泉 温   63.8  ℃
 pH   7.3
 成分総計   12.94 g/㎏
    Na=2874/K=39.9/Ca=1692/Mg=159.7/Fe2=0.1/
  Mn=1.1(4767㎎/㎏)
  Br=44.5/Cl=7087/SO4=932.4/HCO3=59.3(8123㎎/㎏)
  HAsO2=0.1/H2SiO3=43.5/HBO2=6.0(49.6㎎/㎏)
  CO2=4.4(4.4㎎/㎏)
            
〔2009.10.05〕
 入浴履歴   初訪14.10.12
 評 価   ★★★★
 皆生温泉
海 潮 園
                            かいけおんせん かいちょうえん
湯加減は、手前側に設けられた石樋から珊瑚の鉢を介して加水されてい
ることからぬるめ寄りの適温となっており、微濁り透明の湯からは塩苦
味とともに弱土類臭が感じられ、食塩泉らしく肌がしっとりし、浴後し
ばらく火照りが治まらないほど良く温まりました。


壁を紅殻色で仕上げた落ち着きのある館内には、詩人としても知られる
先代と親交のあった早稲田大学時代の友人である野坂昭如を始め、司馬
遼太郎や吉行淳之介・田辺聖子といった作家の直筆原稿や手紙、棟方志
功や長谷川富三郎の版画が飾られており、次回はぜひとも宿泊で訪れ、
これらの文人に愛されたという自慢の料理とともに賞でたいと思います。
                           〔15.11.26〕
左側面に3か
所設けられて
いる注入口の
うち、真ん中
から槽内で加
えられている
のは、貯湯槽
から引かれた
5本の源泉を
混合した食塩
泉。
左奥の曇りガラス戸から出入りする
浴室は石板張りで、右壁の手前側に
5基のシャワーカランが並び、ガラ
ス張りとなった左手には右奥にタイ
ル張りの寝湯を付設する奥行き5.7
mほどの鉤形を呈した御影石造りの
湯船が配されていました。
家族風呂と隣合う暖簾掛けの入口
を入ると、竹製のタイルが敷かれ
た脱衣所には、左手前に20個の角
籠を納めた24庫の脱衣箱が備えら
れ、正面に3基の洗面ボウルが並
ぶパウダーコーナーが設置されて
います。
二重の自動ドアとなった玄関を入
ると、館内はすべて畳敷きとなっ
ており、正面左端にかつての旅籠
を想わせるような帳場があり、右
側には大きな柱時計が掛けられ、
囲炉裏が切られたロビーが続いて
います。
『海潮園』は、温泉街でトライアス
ロン通り”と呼ばれている県道米子
環状線(300号)の米子市観光センタ
ー前交差点から四条通りを海岸へ向
かって210mほど歩を進めると右手
に所在する、先代館主の中島敏行氏
が1959年に創業した温泉旅館です。

白壁に炭黒の木材が映える逆コ字と
鉤形が繋がったような奥行きのある
建物は木造2階建てで、客室は全18
室を数えます。
不毛の海浜の地に一大温泉郷を開発し、地方発展を図るという有本氏
の壮大な構想は、京都の町並みを模した国の造園技師 折下吉延氏に
よる「皆生温泉都市計画設計図」に基づいて実行に移され、1922年に
は乗合自動車会社を創業、翌1923年には米子電気軌道株式会社を設立
し、米子皆生間を皆生電車で繋ぐなど、皆生温泉の礎を築きました。

ところが、昭和に入ると不況の波が押し寄せて大型旅館の休業が相次
ぐとともに、波浪による海岸の浸食被害が追い打ちを掛け、1935(昭
和10)年9月に砂浜にあった第1号泉源が失われたほか、1938年に薬師
堂が倒壊、1942年には旅館 金魚亭の一部が流失し、1945年には1924
(大正13)年以来泉源から汲み上げた源泉を溜めていた配給タンクが倒
壊してしまいました。
皆生温泉は、JR山陰本線の米子駅から北東方向へ約4.1㎞、日本の渚百選や日本の白砂青松百選に選定さ
れている弓ヶ浜半島の東端に位置する皆生海岸に臨む風光明媚な温泉地です。

明治初期に沖合200mで熱い泡が噴き出しているのを漁師によって発見され、“泡の湯”と呼ばれていまし
たが、水深10mを超す海底であったために利用する手立てがなく、そのまま放置。

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この宿にはロビーから畳敷きの廊下をクネクネと進んだ奥に、開湯時の
一軒宿「浜の屋」に由来し、大正時代に造られたという皆生温泉最古の
岩風呂を2001年7月の改装により露天風呂として併設した“浜の湯”、
魚問屋を営んでいた先々代所有のトロール船が1946年3月に山口県萩沖
の海中から引き揚げ、中に酒を注ぎ入れて酒宴を開いたところ豊漁続き
となったという大きな杯形をした浜珊瑚を使用した“珊瑚湯”という午
前と午後で男女入替えとなる2つの大浴場と宿泊客専用の無料家族風呂
があり、訪問した夕方の時間帯は後者が男湯となっていました。
戦後しばらくはかろうじて復旧された4号泉から細々と配湯が続けら
れていましたが、1949年に内陸で新しい泉源が掘削されるとともに、
1956年から5年の歳月をかけて長さ約1.3㎞に及ぶ防潮堤が建設され、
さらに1966年以降は建設省考案のテトラポットを積み重ねて造った離
岸防潮堤が敷設され、開湯以来の海との戦いに終止符が打たれること
となりました。

その結果、東西1㎞、南北0.4㎞の範囲に約30軒の宿泊施設と日帰り入
浴施設2か所が集まる“米子の奥座敷”と呼ばれる山陰地方最大の温
泉地に発展し、日本におけるトライアスロン発祥の地としても知られ
ています。
有本松太郎氏 胸像
1900(明治33)年、山川忠五郎氏を網小頭とする20名ばかりの漁師に
よって海岸の浅瀬で湧出している温泉が改めて発見され、一升瓶に
汲み取ったのが温泉発見の年とされています。
その後、八幡市次郎氏を始めとする何人かによって温泉開発が試み
られましたが、技術的に及ばず、本格的な開発は1920(大正9)年の
有本松太郎氏の登場を待たなければなりませんでした。

米子の実業家で鳥取県議会議員を務めていた有本氏は、同年9月に
海中調査に着手し、数か所の泉源を確認。続いて11月に旧藩主の池
田氏から門脇茂雄氏へ払い下げられた土地約15ha、翌年1月に福生
村から海岸砂地一帯を温泉とともに買収したほか、5月に皆生温泉
土地株式会社(現 皆生温泉観光株式会社)を設立し、11月には7月末
から手掛けていた第1号泉源の掘削に成功しました。