住 所   群馬県吾妻郡草津町草津 (泉水区)
  電 話   
 営業時間   24時間 (清掃時間・18:00~22:00の区民専用
       時間 除く)
 入浴料   無料
温泉利用状況   完全放流式
   
 源 泉 名   湯畑
  泉 質   酸性・含硫黄-アルミニウム-硫酸塩・塩化物泉
 湧出量       ℓ/min
 泉 温   51.3  ℃
 pH   2.1
 成分総計   1.69 g/㎏
    H=8.91/Na=56.0/K=27.5/Ca=73.5/Mg=36.3/Al=43.8/
  Fe2=17.5/Mn=1.88(265㎎/㎏)
  F=9.9/Br=1.3/Cl=311/SO4=640/HSO4=192
  (1154㎎/㎏)
  H2Si03=216/HBO2=8.2/H2SO4=4.3(229㎎/㎏)
  CO2=36.7/H2S=7.1(43.8㎎/㎏)
      
〔2013.05.15〕
 入浴履歴   初訪08.09.27
 評 価   ★★★★
 草津温泉
関 の 湯
                             くさつおんせん せきのゆ
赤いバルブ付きの湯口からドバドバと湯船に掛け流されているのは、湯
畑源泉。
わずかに青味を帯びた熱めの湯からは、湯畑で漂っているような硫黄臭
は判然としないものの、仄かな明礬臭とレモン汁のような酸味が感じら
れ、肌がぬるぬるしました。

何故か女湯より小さいという浴場は、草津温泉では最小の定員3名。
それがまた共同湯らしい風情を醸し出しており、草津初入湯の湯として
強く印象に残りました。                〔10.10.23〕
『関の湯』は、湯畑から湯滝通りを130mほど歩いていくと左手に所在
する、1885(明治18)年頃に創設されたという小さな共同浴場です。

飲食店を中心とした店が建ち並び、観光客の往来も多い賑やかな通りで
すが、1987年12月に改築された急傾斜のトタン葺き切妻造りの浴舎は、
通りの幅員の狭さがかえって災いしているのか、不思議なことにほとん
ど目立たず、通りに面した建物平側の石積みに“関乃湯”というプレー
トが嵌っていなければ、うっかり見落としてしまいそうなほどひっそり
と佇んでいます。
浴場入口は両妻側の手前側にあり、男湯は向かって左側となっています。
戦国時代には傷病治癒の評価が上がり、丹羽長秀や豊臣秀吉の異父妹で徳川
家康の正室になった朝日姫、大谷吉継・前田利家といった武将らが湯治に訪
れているほか、秀吉からは家康に入湯を勧める書状が送られています。
沼田藩真田家の改易後に江戸幕府の天領となった近世には、1717(享保2)年
に8代将軍吉宗が温泉を汲み上げて江戸城に運ばせたり、小林一茶・十返舎
一九・佐久間象山といった文人も訪れています。
また、この時代を通じて60軒に及ぶ湯屋が設けられ、訪問客は1年に1万人を
超えて、“草津千軒江戸構え”と言われるほどの賑わいぶりであったそうで
す。

草津温泉の源泉といえば、岡本太郎のデザインによって温泉街の中心でロー
タリー状に整備された湯畑源泉が有名ですが、このほかに白旗・地蔵・煮川
・西の河原・万代鉱といった公的管理されている源泉や宿泊施設等が所有し
ている小源泉も多数あります。
1975年から硫黄鉱山の坑道で新たに噴出した万代鉱源泉の利用を開始したの
を機に、町による集中管理給湯システムが整備され、一気に温泉規模が拡大
しました。
“草津よいと~こ、一度~は~おいで~(ハドッコイショ)”という湯もみ唄でよく知られる草津温泉は、群
馬県の北西部、草津白根山東麓の標高1170mの高所に、約130軒の宿泊施設、誰でも無料で利用可能な19か所
の共同浴場、飲食店・土産物屋などが集まる、わが国を代表する温泉地の一つです。

毎分36839ℓ、ドラム缶にして1日に25万本という自然湧出量では日本一の豊富な湯量を誇り、加えてpH2.0前
後という日本有数の酸性度から、温泉街に建ち並ぶ旅館や共同浴場のすべてが完全放流式を採っています。

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格子扉の先の浴場は、脱衣所と浴
室が引戸によって分けられている
もののかなり狭く、脱衣所は2段
の棚にプラスチック籠が4個置か
れただけの実に簡素な造りです。

石張りの浴室には、右奥に寄せて
耐酸コーティングされた奥行2m
ほどの五角形のコンクリート湯船
が置かれ、狭小ながらその左側が
洗い場となっています。
湯畑源泉
鎌倉時代初期の1193(建久4)年、源頼朝が浅間山三原野で巻狩りを行っ
た際に発見し、案内を務めた木曾義仲の旧臣細野御殿之助に湯本姓を与
え、地頭として温泉経営を任せたと伝えられていますが、確実な史料と
しては、東国への布教活動を行っていた蓮如が、1472(文明4)年に長野
市にある西厳寺の住職の案内で訪れたというのが初出のようです。

また、1489(延徳元)年には、京都相国寺の禅僧で歌人でもあった万里集
九が、詩文集『梅花無人蔵』の中で有馬温泉・下呂温泉とともにその名
泉ぶりを讃えており、少なくとも室町時代の中頃には温泉地として整備
されていたことが窺われます。
なお、万里による記述は、そのまま江戸時代前期に林羅山が唱えた“日
本三名泉”に引き継がれています。