住 所   長野県下高井郡野沢温泉村豊郷十王堂
  電 話   
 営業時間   5:00(12~3月 6:00)~23:00
 入浴料   寸志
温泉利用状況   完全放流式
   
 源 泉 名   十王堂の湯 〔受湯槽 採湯〕
  泉 質   単純硫黄泉
 湧出量       ℓ/min
 泉 温   72.7 ℃
 pH   8.6
 成分総計   0.902 g/㎏
    Na=181.5/K=6.7/Ca=64.7/Al=0.6/NH4=1.0
  (254.5㎎/㎏)
  F=0.9/Cl=76.5/SO4=380.3/HCO3=44.1/CO3=9.4/
  NO3=0.2/HS=14.2/HPO4=0.1(525.7㎎/㎏)
  H2Si03=113.0/HBO2=7.2(120.2㎎/㎏)
  CO2=1.2/H2S=0.4(1.6㎎/㎏)     
〔2007.06.29〕
 入浴履歴   初訪08.07.25,最終10.09.18(2回目)
 評 価   ★★★★
 野沢温泉
十 王 堂 の 湯
                      のざわおんせん じゅうおうどうのゆ
緑白濁となる時もあるそうで、温泉って本当に不思議です。

先客によって加水されていたのでしょうか、初訪時には浸かりやすい湯
温となっていたものの、元々湯口に渡した長い塩ビパイプを利用して湯
船への注入量を絞っているような高温泉。
2度目の時は激熱で、最小限に加水して何とか浸かることができました。
浴場は、浴室の手前と左手に脱衣所
を配した一体型の造り。
温泉を利用した床下暖房が採られて
いる脱衣所には、それぞれ16・14庫
の脱衣箱が設えられています。

タイル張りの浴室には、3.45×2.3
mほどの角を落とした長方形のタイ
ル張り湯船が、右壁に一長辺を寄せ
て配されています。
1979年に建て替えられた浴舎は、
薄卵色をした2階建ての洋風建築。
野沢温泉の外湯では、唯一男女で
浴場の階を異にしており、女湯は
1階、男湯は右側の階段を上がっ
た2階にあり、1階の左端には洗濯
場も設けられています。

女湯入口のアルミ扉の右横には、
十二神将の一人“頞你羅(あにら)
大将”が、この浴場の守り仏とし
て祀られていました。
『十王堂の湯』は、大湯から大湯通りを270mほど南下すると右手に所在する1839(天保10)年に創設された
共同浴場です。

秋葉の湯から坂を下ってくると、木造の閻魔十王堂を過ぎた突き当たりにあり、浴場名はこの閻魔堂に由来
しています。
野沢温泉は、上信越自動車道の豊田飯山I.Cから国道117号と県道飯山野沢温泉線(38号)経由で20㎞余り、毛
無山(1650m)の西麓に旅館・ホテル・民宿など200軒以上の宿泊施設が集まる、“温泉大国”信州を代表す
る温泉地です。

開湯については、聖武天皇の時代(724~748)にこの地を訪れた行基が発見したとされていますが、そのほか
にも、修行をしていた山伏が見つけた、あるいは、手負いの熊が傷を負った手を湧出口に浸しているのを猟
師が見つけ発見した、という説も伝わっています。

トップページへ



長野県の温泉へ



閻魔十王堂
湯面からは芳ばしい焦げ硫黄臭
が香り、湯口で源泉を口に含ん
でみると、薄味のスープのよう
なおいしい味がしました。

湯気抜きもきちんと備えられた
浴場は、湯船ともども結構広々
とした造り。
野沢の湯をゆったりと満喫する
ことができる一湯です。
         〔10.10.06〕
壁中央の木製湯
口から静かに掛
け流されている
のは、独自源泉
の単純硫黄泉。

初入湯の時は、
写真左のように
タイルの水色が
美しく映える清
澄な透明湯でし
たが、再訪時は
透明度45㎝ほど
の白濁湯となっ
ていました。
野沢温泉村では38か所の泉源が知られ、古くは「釜潭」(熱湯がたぎる
縁)と呼ばれた“麻釜”(おがま)では、地元住民が野沢菜や卵などを茹
でるのに利用しています。

また、村内には御殿湯であった大湯をはじめ13か所の共同浴場(外湯)が
点在しており、江戸時代から湯仲間という制度によって守り続けられて
きました。
現在でも、この株仲間が当番制で清掃や管理に当たり、宿泊客はもちろ
んのこと、日帰りの観光客も寸志で入浴することができます。
鎌倉時代には「犬養御湯」と呼ばれ、承久の乱(1221年)で佐渡へ配流
となった順徳天皇により、名取御湯(宮城県 秋保温泉)・信濃御湯(長
野県 別所温泉)とともに『三御湯』に選定されています(犬養御湯で
はなく、三函御湯=福島県 いわき湯本温泉の説もあり)。
1272(文永9)年には、湯山村という名で歴史に登場しています。

江戸時代には、1639(寛永16)年に藩主となり、飯山藩の基礎を固めた
松平忠倶によって御殿湯が置かれ、合わせて浴場や宿を湯治場として
整備し、広く一般にも開放したことから、多くの民衆がこの山里を湯
治に訪れるようになり、明治初期には3年間で2万人以上を数えるほど
になりました。