住 所   長野県下高井郡野沢温泉村豊郷河原湯9495
  電 話   
 営業時間   5:00(12~3月 6:00)~23:00
 入浴料   寸志
温泉利用状況   完全放流式
   
 源 泉 名   河原湯
  泉 質   単純硫黄泉
 湧出量       ℓ/min
 泉 温   64.1 ℃
 pH   8.4
 成分総計   0.8241 g/㎏
    Na=151.0/K=6.8/Ca=56.4/Mg=0.2/NH4=1.2/
  Fe=0.4(216.0㎎/㎏)
  F=0.9/Cl=77.8/SO4=322.6/HCO3=56.8/
  CO3=8.4/NO3=0.2/HS=21.3(487.9㎎/㎏)
  H2Si03=105.4/HBO2=12.9(118.3㎎/㎏)
  CO2=0.9/H2S=1.0(1.9㎎/㎏)    
〔1997.12.26〕
 入浴履歴   初訪08.07.25,最終12.05.03(2回目)
 評 価   ★★★★
 野沢温泉
河 原 湯
                             のざわおんせん かわらゆ
湯の中には、消しゴム滓
のような白い湯の華が多
量に舞い、黒色の湯の華
も少量見られます。

無色透明の湯からは、茹
で玉子のような硫黄臭味
が感じられ、少しつるり
とした肌触りも楽しめま
した。
野沢温泉は、上信越自動車道の豊田飯山I.Cから国道117号と県道飯山野沢温泉線(38号)経由で20㎞余り、毛
無山(1650m)の西麓に旅館・ホテル・民宿など200軒以上の宿泊施設が集まる、“温泉大国”信州を代表す
る温泉地です。

開湯については、聖武天皇の時代(724~748)にこの地を訪れた行基が発見したとされていますが、そのほか
にも、修行をしていた山伏が見つけた、あるいは、手負いの熊が傷を負った手を湧出口に浸しているのを猟
師が見つけ発見した、という説も伝わっています。

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外湯めぐりも後半戦ということもあって、その個性を十分体
感し得たとは言いがたいのが正直なところ。
再訪必至の一湯です。            〔10.10.03〕
男湯の入口は左側。
浴場は、入口から16庫の脱衣箱が並ぶ左壁に
沿ってL字形に簀子が敷かれ、そこから一段
下がった右側がそのまま浴室となった一体型
の造りで、脱衣所の奥には「淨湯(きよめゆ)」
と書かれた湯溜めが付設されています。
浴室は壁面の基部から下がすべて石板張りで、
中央には黒御影で縁取った2.5×1.7mほどの
長方形のコンクリート湯船が、仕切り壁に一
短辺を寄せて配されています。

礫に穴を開けて作られた湯口からトボトボと
掛け流されているのは、浴場名と同じ独自源
泉。
名古屋から来訪したという先客によって加水
されていたものの、湯温はかなり熱めとなっ
ていました。
大湯・熊の手洗湯と並ぶ古湯とのことで、昔は渓流に沿った窪地の河
原にあったことからこの名が付けられたそうです。
不思議に思って周りの地形を観察してみると、確かに前後が傾斜した
沢筋の底のような場所に立地しており、かつてはこの沢を川が流れて
いたのでしょう。

1992年に建て替えられたという浴舎は木造の湯屋建築で、寄棟の上に
堂々とした湯気抜きを載せ、入口を唐破風の庇が覆うなど、大湯には
さすがに及ばないものの、なかなか見事な造りをしています。
庇の下にはアルミの入口扉が左右に並び、その間の柱の上方には、十
二神将の一人である“真達羅(しんだら)大将”が、この浴場の守り仏
として祀られています。
『河原湯』は、「大湯旅館街 入口」というゲートを潜り、緩やかな坂を大湯に向かって120m余り上ってい
くと右手に所在する共同浴場です。
野沢温泉村では38か所の泉源が知られ、古くは「釜潭」(熱湯がたぎる
縁)と呼ばれた“麻釜”(おがま)では、地元住民が野沢菜や卵などを茹
でるのに利用しています。

また、村内には御殿湯であった大湯をはじめ13か所の共同浴場(外湯)が
点在しており、江戸時代から湯仲間という制度によって守り続けられて
きました。
現在でも、この株仲間が当番制で清掃や管理に当たり、宿泊客はもちろ
んのこと、日帰りの観光客も寸志で入浴することができます。
鎌倉時代には「犬養御湯」と呼ばれ、承久の乱(1221年)で佐渡へ配流
となった順徳天皇により、名取御湯(宮城県 秋保温泉)・信濃御湯(長
野県 別所温泉)とともに『三御湯』に選定されています(犬養御湯で
はなく、三函御湯=福島県 いわき湯本温泉の説もあり)。
1272(文永9)年には、湯山村という名で歴史に登場しています。

江戸時代には、1639(寛永16)年に藩主となり、飯山藩の基礎を固めた
松平忠倶によって御殿湯が置かれ、合わせて浴場や宿を湯治場として
整備し、広く一般にも開放したことから、多くの民衆がこの山里を湯
治に訪れるようになり、明治初期には3年間で2万人以上を数えるほど
になりました。